歴史大好き、くろーるです。
戦国時代に一介の浪人から関東を支配する大名となった北条早雲(ほうじょうそううん)から100年の歴史のあった小田原北条家。
ところが、1590年(天正18年)の豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原征伐(おだわらせいばつ)で、ろくな戦いもせずに小田原北条家は滅びてしまいます。
「四代目・北条氏政(ほうじょううじまさ)が小田原北条家を滅ぼした!」
天下が豊臣秀吉の時代になることを予想できなかった北条氏政は、“先の読めない愚かな四代目”として小田原北条氏に汚点を残しました。
しかし、北条氏政が有能か無能かに関わらず、小田原征伐による小田原北条氏の滅亡は決定事項だったとしたら!?
豊臣秀吉の心ひとつに翻弄された、小田原北条家の悲劇の真相です!!
小田原北条家が滅びた小田原征伐とは??
本能寺の変から8年。
織田信長の後継者となった豊臣秀吉の勢いは目覚ましいものになっていました。
中国地方の毛利(もうり)氏、四国地方の長宗我部(ちょうそかべ)氏、九州地方の島津(しまづ)氏と西の有力大名は次々と豊臣秀吉に服従します。
西日本を制した豊臣秀吉は、次は東日本へ目を向けます。
東の大大名といえば、東北の伊達政宗と100年に渡り関東地方を支配してきた小田原北条家。
関東の名門・小田原北条家を攻めようとは、豊臣秀吉とは怖いもの知らずの田舎者よ!
四代目・北条氏政は、そんな豊臣秀吉の強大さを見くびっていたのです。
しかし、豊臣秀吉が小田原北条攻めに全国から集めた兵力は20万!!
次々と降伏・落城する各地の小田原北条氏配下の城と大軍勢の前に、「籠城による徹底抗戦か?それとも降伏か」を3ヶ月にも渡り決められない無策ぶりを見せました。
会議ばかりに一向に決まらないことをなぞらえた「小田原の長評定」は、このことです。
最後は家臣の豊臣軍への内通もあり、小田原城の開城・降伏となります。
四代目・北条氏政は切腹、五代目で現当主・氏直は追放となり、ここに小田原北条家は滅亡したのです。
これが「小田原征伐」といわれるできごとですが、このとき小田原北条家方で唯一落城しなかった城が、成田氏長(なりたうじなが)の守った忍城(おしじょう)でした。
本屋大賞にも選ばれ、野村萬斎主演で映画にもなっています。
小田原征伐のシーンはありませんが、頼りないリーダーと、それを慕う領民とが一致団結して大軍を圧倒するストーリーは、時代劇ファンではなくともスカッとしますよ!
小田原北条家を滅ぼした四代目・北条氏政の暗君エピソード
北条氏政がどれほど愚かな人物であったかには、こんなエピソードが残されています。
四代目・北条氏政が、父・氏康と食事中のこと。
「北条家もわしの代で滅ぶことになろう・・・」
涙を浮かべてそういった。
不審に思う家臣たちに、
「今、氏政の飯の食べ方を見ていたが、ひとつの飯に二度も汁をかけて食べた。毎日することの量さえわからないものに、人の心の内などわかろうはずもない。そのようなものに良い家臣が従うこともないだろう。」
「そう考えたら、わしの代で滅びるとわかろうものだ。」
これが「北条氏政の汁かけ飯」といわれる北条氏政の暗君ぶりを伝える逸話です。
『武者物語』など多くの書物に書かれています。
北条氏政には治世を行う度量も兵を率いるリーダーシップも外交をする能力も無いと嘆いたとされる話です。
さらに、もうひとつ。
農民が麦刈りをしている様子を見ていた北条氏政。
「あの取れたての麦で麦飯にしようではないか。すぐにもってまいれ!」
もちろん、麦をもっていたからといって、すぐに麦飯にできるわけではない。
収穫したばかりの麦は、乾燥され脱穀して精白してから麦飯になるのだ。
その話を聞いた武田信玄は、北条氏政の無知ぶりを大いに笑ったという。
これは『甲陽軍艦』という武田家のことを書いた書物に載るものです。
いかに領民の暮らしに関心がなかったかを示すエピソードで、小田原北条家の行く末もわかろうというもの。
北条氏政の先見の明のなさが、小田原北条家の滅亡を招いたとされています。
それほど、北条氏政は愚かな人物だったのでしょうか?
信長・家康の将来性を見通した北条氏政の先見の明
1580年(天正8年)に北条氏政は、息子の五代目・北条氏直に北条家を継がせ、自分は隠居の身となります。
実はこれ、織田信長の娘と氏直の婚姻が決まったことによります。
北条氏政は42歳と引退するには、まだ若い!!
もちろん、婚姻関係を結ぶ織田家への配慮に他なりません。
北条家当主と織田家の縁談となれば、格式的も高くなるからです。
これからは織田信長の時代がやってくるに違いない!!
全国に覇を唱えようとしている織田信長の実力を見極めた上での北条家の安泰を考えた北条氏政の先見の明だったといえますよね。
まさか、この時点では織田信長が本能寺の変で殺されるなど、誰もが予想できなかったわけですから。
ところが、本能寺の変により織田信長が殺されたことで縁談はご破算となってしまいます。
それでも、北条氏政の未来を見通す目は精彩を欠いてはいませんでした。
そうか・・・徳川殿の世もきっとあり得るぞ!!
次に氏直の正室に選んだのは、徳川家康の娘だったからです。
徳川家康が織田信長との縁談を取り持ったこともありましたが、同時に、北条氏政が徳川家康の将来性を見込んでいたのでしょう。
徳川家とは隣同士の家柄でもありましたので、同盟関係を結ぶには都合の良い地域でもあることも理由です。
もっとも、徳川家康の娘を妻としたことが、五代目・北条氏直を命を救うことになり、細々と小田原北条氏の命脈はつながると考えれば、この選択も正解だったといえますね。
そんな先見の明に優れた北条氏政が、豊臣秀吉をナメていたとは考えにくいのです。
どのようなことであろうとも、秀吉殿の命令に従います。
小田原征伐の2年前、徳川家康の仲介によって、豊臣秀吉と現当主・北条氏直の間には友好な関係が築かれていたとされます。
西日本の有力大名たちが激しく豊臣秀吉軍と戦った上での服従とは違い、順調に豊臣政権下に組み込まれる手続きを踏んできていたのです。
ところが、北条氏政の知らないところで事態は急展開を迎えるのです!
「名胡桃城事件」によって濡れ衣を着せられた小田原北条家
小田原征伐にいたる直接の原因となった事件、それが「名胡桃(なぐるみ)城奪還事件」です。
小田原北条家の国境確定のときに、名胡桃城は隣接する真田家のものと決められていました。
それを、小田原北条家側の猪俣能登守(いのまたのとのかみ)が真田家から奪還するという事件が起きてしまいます。
小田原の氏政はワシに従う気など、にぁ~だがね!!
小田原北条家は豊臣に従う気がないとして、小田原征伐を決定したといわれます。
ところが、このときに小田原北条家は豊臣方へ使者を派遣しています。
これは名胡桃城事件とは全く関係のない定期的な使者だったようで、派遣した使者が拘束された報告を聞き、はじめて何か深刻な事態が発生していることを知ります。
さらに、この事態を招いた原因が名胡桃城にあることがわかると、現当主で五代目・氏直、先代当主で四代目・氏政、外務大臣にあたる北条氏規(ほうじょううじのり)がそれぞれ個別に徳川家康へ手紙を出し、助力を求めています。
名胡桃のことはまったく知らなかったことです!真相を明らかにしてもらえれば、濡れ衣であることがわかるはず!!
三名が同時に手紙を出すこと事態が異例のことだったのですから、相当あわてていたことがうかがえます。
少なくとも、「名胡桃城事件」は小田原北条方が仕掛けたものではないといえそうです。
小田原北条方の懸命の釈明にも聞く耳をもたない豊臣方の態度に、違和感を覚えずにはいられません。
小田原征伐はすでに決まっていた!これがその証拠だ!
小田原征伐の発端となった「名胡桃城奪還事件」。
ところが、この事件から遡ること1ヶ月以上前に、豊臣秀吉は長束正家(なつかまさいえ)に以下のような指示を出していることがわかっています。
・年内に20万人1年分の食料を用意し、来春までに駿河港へ運搬すること。
・伊勢、尾張、三河、駿河で兵糧を買って、小田原近くに運搬すること。
・馬二万匹分の飼料も調達すること。
長束正家は、豊臣秀吉を支えた五奉行の一人として知られますが、いわば有能な官僚だった人物です。
駿河は現在の静岡あたりを示し、小田原北条家に隣り合う徳川家康の領地でもありました。
つまり、名胡桃事件が起こる以前から小田原征伐へ向けて着々と準備を整えていたことの証拠があったのです。
名胡桃事件はあくまできっかけ、口実に過ぎません。
むしろ、豊臣方から仕掛けたといっても不思議ではないのです。
というのも、名胡桃事件で城を奪われたのは、沼田領主・真田昌幸(さなだまさゆき)。
真田幸村(さなだゆきむら)の父親にして、徳川家康を何度も苦しめた戦術家。
そして、謀略戦やゲリラ戦にも秀でた才能をもっていました。。
豊臣秀吉から指示を受けて、名胡桃事件を仕掛けることなど容易いことでしょう。
これは、あくまで推測ではありますが・・・
小田原北条氏の滅亡は「秀吉の血」に捧げられた生贄
順調に進んでいたはずの小田原北条家の豊臣秀吉の臣下入りが、突如、破棄へと向かったわけは何故だったのでしょうか?
もし、豊臣方の策略だったとしても、東の大大名・小田原北条家との激突は、甚大な被害を想定しなくてはいけません。
注目点は、小田原北条家の国境確定時から長束正家への指示が出されるまでの期間、1589年(天正17年)春から同年10月までに何があったか?です。
「自分の血を引く世継ぎの誕生」!!
この年の5月、側室・淀君との間に、のちの豊臣秀頼となる実の子が生まれています。
豊臣秀吉としては、早く全国を平定・安定させて、我が子に政権を継がせたいと思うのは親心というものです。
その不安を煽るように、6月には東北の有力大名・伊達正宗(だてまさむね)が隣国の蘆名義広(あしなよしひろ)を破って会津への領土拡張を成功させています。
関東以北の情勢が不安定であることを、あらためて思い知らされ、関東最大の小田原北条家の力を大きく削り、うまくいけば取り潰すことも考えたとしてもおかしくありません。
小田原征伐の情勢を見極めた上で、伊達政宗は豊臣秀吉へ服従することを決めてますので、小田原北条家のおかげで伊達家は生き残れたといってもいいのです。
歴史にifは禁物ですが、豊臣秀吉に子供が生まれなければ、小田原北条家は滅びずに豊臣秀吉の一員として迎えられていたかもしれませんね。
仕組まれた小田原征伐!「汁かけご飯」話で貶められた北条氏政の名声 まとめ
100年続いた小田原北条家は名君続きといわれていました。
中央の情勢を的確に読み、先を見通し、婚姻による関係強化をしてきた北条氏政は、群雄割拠を生き抜く先代たちに劣らぬ名君だったはずです。
ただ一つ、豊臣秀吉の異常なまでの血縁へのこだわりを除いては・・・
小田原征伐の責任をとって、北条氏政は切腹となり、関東の雄・小田原北条家は滅びます。
一方、息子であり現当主・北条氏直は高野山追放となって生き永らえることになります。
徳川家康の娘婿であったことに豊臣秀吉が気をつかったためといわれています。
これも、北条氏政の徳川家康の将来性を見込んだ先見の明によるおかげです。
北条氏直が生き残ったことで小田原北条氏の命脈は保たれ、江戸時代には、徳川家康の家臣として迎え入れられることになります。
小田原北条家滅亡から学びビジネスに活かす方法『小田原征伐に学ぶー相手に口実を与えない』
Coffee, Cigarettes & Music
小田原北条家の祖・北条早雲の一代記を漫画で!『新九郎、奔る!』
戦国時代の幕開けに関東一円に版図をもった小田原北条家。
四代・100年に渡り支配し続けた小田原北条家も、始まりは一豪族に過ぎませんでした。
戦国の成り上がりのシンボルともいわれる、小田原北条家の祖・北条早雲の一代記を漫画で追体験!
『機動警察パトレイバー』『究極超人あ~る』などの漫画家・ゆうきまさみ先生の手により、ゆるくライトなキャラ達が、重厚な大河ドラマを展開していきます。
漫画で学ぶ戦国夜明け前!!