歴史大好き、くろーるです。
幕末の京都で“壬生(みぶ)の狼”と恐れられた新撰組(しんせんぐみ)。
新撰組三番隊隊長であった斎藤一(さいとうはじめ)は、同じく一番隊隊長・沖田総司(おきたそうし)、二番隊隊長・永倉新八(ながくらしんぱち)と並ぶスゴ腕の剣士でした。
京都へ来る前からの初期メンバーの一人で、新撰組についての記録にも、登場するケースは多いのです。
ところが、他のメンバーとは異なり、斎藤一の行動には謎が多いのも気になります。
例えば・・・
- 何度も名前を変えているが、その目的がはっきりしない。
- 旧新撰組のメンバーで作られた御陵衛士(ごりょうえじ)に所属しながら、新撰組に突然戻ってきた。
- 記録でははっきりしない暗殺の主要メンバーである。
- 一方で、新撰組の活躍する事件では、あまり登場しない。
新撰組の初期メンバーでは、永倉新八と並んで数少ない生き残りでありながら、その生涯を語らなかったため、少ない記録でしかわからない斎藤一。
近藤勇の信頼厚い人物であった斎藤一の本当の役割は何だったのでしょうか?
漫画アニメ『るろうに剣心』でも主要人物として登場しますが、新撰組の裏工作員ともいわれる斎藤一にフォーカスしたいと思います。
『るろうに剣心』斎藤一の得意技“牙突”は何流の剣術?
新撰組において、三本の指に入るといわれた斎藤一の剣術。
天才剣士・沖田総司は天然理心流(てんねんりしんりゅう)。
新撰組最強といわれた永倉新八は神道無念流(しんとうむねんりゅう)。
しかし、斎藤一がどういった剣術を身に着けていたのかはハッキリしません。
どういったものかはわかりませんが、すごい剣術でした。
スゴ腕であることは誰もが認めるものでしたが、どうゆう流派であったかはわからなかったのです。
斎藤一が家族に話していたことを書きとった『藤田家の歴史』というものがあります。
明治になってから斎藤一は「藤田五郎」と名前を変えています。
そこには、
一刀流を会得(えとく)した
とされています。
一刀流は、戦国時代末期に伊藤一刀斎(いとういっとうさい)が始めた剣術流派で、その後いくつもの流派に分かれます。
有名なものは、千葉周作(ちばしゅうさく)が始めた北辰一刀流で、坂本龍馬(さかもとりょうま)などが会得したことで知られます。
斎藤一が会得した一刀流が、元祖一刀流だったのか、それとも別れた流派の一刀流だったのかはわかりません。
“突き”の型は、剣術の基本の型のひとつですので、一刀流に限ったことではありません。
左利きの突き技“牙突”が生まれたエピソードはコレだ!
漫画アニメ「るろうに剣心」に登場する斎藤一の得意ワザ“牙突”(がとつ)。
左手で刀を持ち、水平にかまえるカッコイイ姿です。
この“牙突”が生まれた元と思われるエピソードがあります。
新撰組の隊士の中に、長州藩(現在の山口県)の潜入スパイと疑われるものがいた。
長州藩のスパイであろうことは近藤勇たちの幹部は気付いていたものの、長州藩の動きを探るために気付かないフリをし泳がせていました。
まもなく、新撰組の重要情報を漏らしていることが判明、長州藩スパイの殺害を近藤勇から指示された斎藤一。
殺害命令が出ているとはを知らない長州藩スパイ2名は、新撰組屯所内で散髪をしているところを、斎藤一は後ろから一突きにして殺害します。
一説には、理髪師の股の間から突き刺したともいわれる。
このとき、「斎藤一の利き手と同じ左側を一突きにした」と書かれていました。
そのため、斎藤一は左利きという設定と“牙突”という突き技が生まれたのではないでしょうか。
ただ、斎藤一が左利きであることは、このエピソードで一度だけしか確認できていません。
また、この長州藩スパイ殺害自体、齋藤一がおこなったかはわからないといわれます。
新撰組では三番隊隊長という重要なポストにいながら、具体的な活躍のエピソードが少ない斎藤一。
沖田総司や二番隊隊長の永倉新八などは、新撰組の関係する大事件で活躍するエピソードが多く見られます。
それに比べると、斎藤一が新撰組でどのような働きをしていたのかは謎なのです。
御陵衛士の潜入スパイだったのか?斎藤一の役割とは?
1864年(元治元年)から新撰組に加わった伊東甲子太郎(いとうかしたろう)という人物がいます。
知的で話術にも優れ、武道派の多い新撰組の中では貴重な存在として、近藤勇の参謀でもありました。
ところが、3年後、伊東甲子太郎を含む新撰組隊士14名が脱退します。
この新撰組脱退者のひとりに齋藤一もいたのです。
伊東甲子太郎たちの新撰組脱退者で作られた組織が、御陵衛士(ごりょうえじ)と呼ばれます。
御陵衛士の仕事は、同年に亡くなった孝明天皇(こうめいてんおう)の墓を守ることでした。
この御陵衛士と新撰組との関係は、実に不思議なものです。
というのも、新撰組の規則として脱退は許されず、その罰は切腹と決まっています。
しかも、伊東甲子太郎は新撰組内の重要幹部です。
しかし、伊東甲子太郎たちの脱退は、近藤勇たちとの合意の上での脱退という異例のものでした。
さらにいうと、御陵衛士結成の8ヶ月後、伊東甲子太郎を含む4名が新撰組に暗殺されます。
これを油小路事件(あぶらこうじじけん)といいます。
その上で、斎藤一は何事もなく、新撰組へ復帰しているのです。
御陵衛士結成の理由には二つの説があり、これによって斎藤一の役割も変わってくるのです。
伊東甲子太郎と近藤勇の考えは対立していた説
なぜ、伊東甲子太郎が新撰組を脱退したかについては、考え方の違いだというのがいままでの説です。
重要な新撰組の幹部でもあり、隊士にも人気のあった伊東甲子太郎を脱退を理由に切腹させることは、影響が大きいと考えたといわれます。
そのため、脱退を認めた上で、時間を空けてから暗殺したというものです。
このときに、斎藤一は御陵衛士側に潜入したスパイだったと考えられています。
伊東甲子太郎たちの動きを探ることがミッションだったわけです。
ただ、いずれは殺すことを考えていたのであれば、斎藤一を潜入までさせる必要があったのでしょうか?
しかも、御陵衛士結成にあたっては、近藤勇と伊東甲子太郎の間には一つのルールを作っています。
以後、互いの脱退隊士を受け入れないこと。
実際に、御陵衛士結成後に伊東甲子太郎のところへ移ろうとした新撰組隊士を、伊東甲子太郎は断っています。
もし、近藤勇との意見対立が御陵衛士結成の理由であれば、違和感を感じますよね。
御陵衛士は新撰組別動隊として結成された説
御陵衛士を結成することは、近藤勇と伊東甲子太郎の打合せ済のことだったという説があります。
池田屋事件で尊王攘夷志士を大量の殺害し、新撰組は有名になっていました。
そのため、尊王攘夷側からの新撰組への警戒が厳しく、情報を得ることも難しくなっていました。
そのため、意見の対立から伊東甲子太郎は新撰組を脱退することとし、警戒されにくい別動隊を作ることにしたというものです。
この場合の斎藤一の役割は、新撰組と御陵衛士との間の連絡要員であったと考えられています。
あとからも書きますが、こうゆう役割には斎藤一は適任だったのです。
ところが、時代の流れを伊東甲子太郎は敏感に感じ取ります。
すでに、時代は幕府を不要としていることに気付くのです。
そのため、幕府側の新撰組と倒幕側の薩摩・長州藩両方に情報を流し始めたと考えられます。
伊東甲子太郎の異変に気付いた斎藤一は、このことを近藤勇に報告、油小路事件へとつながります。
油小路事件も近藤勇たちの酒の誘いに、伊東甲子太郎が応じたことで暗殺が成功しています。
伊東甲子太郎が新撰組と共同体制をとっていたからこそ、疑われることなく伊東甲子太郎を差し出すことができたのではないでしょうか?
この方が説得力はありそうですね。
4度も名前を変えた理由は何だったのか?
斎藤一の生涯の中で、4度もの名前を変えています。
確かにこの時代、名前を変えることは決して珍しいことではありません。
しかし、そこには名前を変えるべき理由があります。
斎藤一は、山口一→斎藤一→山口二郎→藤田五郎と名前を変えています。
生まれたときは、山口一だったんや。
播磨国(現在の兵庫県南部)の山口家の生まれとされています。
明治時代には、父親ともども藤田姓に変わったいます。
人を殺したので、偽名を使う必要があったんや。
旗本を殺したために、名前を変えたとされています。
御陵衛士のスパイであったことを隠すためや
さきの油小路事件直後、山口二郎という謎の人物が登場します。
これは、伊東甲子太郎一派を殺害するための情報源が、斎藤一であることを隠すためであったといわれます。
新撰組のメンバーであったことを隠すためや。
藤田姓は、明治になってからの名前です。
もちろん、元新選組であることを知られないためであったことがわかります。
二番隊隊長で新撰組の生き残り永倉新八も、「杉村義英」と名乗っていました。
明治に入ってからの斎藤一は、警視庁にも入っていますが、それは「藤田五郎」としてのことです。
明治政府への反逆者のシンボルとされた新撰組。
その新撰組隊士としては生きていくことは、辛い時代だったのでしょうね。
新撰組の後方支援工作要員こそが斎藤一の真の姿!
長州のスパイを暗殺するという武勇伝を持ちながら、その他の場面でのエピソードは少ない斎藤一。
御陵衛士のスパイでもありながら、斎藤一を批判するような話もありません。
むしろ、その活動は地味に見えるほどです。
近藤勇の信頼は厚かったという話は、多くの新撰組の書物にも書かれています。
『藤田家の歴史』だけではなく、同じく新撰組の生き残り島田魁が書き残した『近藤勇の事』や阿部十郎の『阿部談話』などにもあります。
名前は登場するも、その活躍に焦点があたらないのは、斎藤一の新撰組内の役割が裏方だったからではないでしょうか。
そのひとつの証拠として考えられるのが、戊辰戦争(ぼしんせんそう)の最中、近藤勇の捕らえられた甲州・勝沼戦後の動きが挙げられます。
幕末最後の戦争となった戊辰戦争で、新撰組は果敢(かかん)に戦いながらも敗戦を重ねます。
悲劇の激戦地・会津戦争→『一族全員自刃!女性・子供も戦いの被害に巻き込まれた会津戦争の悲劇』
甲州・勝沼で薩長軍を迎え撃っていた新撰組でしたが、そこでも負けてしまいます。
新撰組の負傷者を連れ、先行して会津藩へと向かったのが斎藤一でした。
会津藩は徳川幕府側最大の有力藩であり、薩長軍に対抗する最大勢力でもあります。
斎藤一が、負傷者を連れていながら先行して会津藩へ入れたのか?
それは後方支援能力も持っていた斎藤一だからこそ、効率よく会津藩へ向かえたといえます。
さらに、先に会津藩へ入り、追ってやってくる新撰組をはじめとした幕府勢力をどのように配置して薩長軍を迎え撃つのかを打ち合せる役も兼ねていたのではないかと考えられます。
斎藤一は常に、新撰組の中でも情報を収集したり、事前の工作活動をするなどの影の活動の主力だったと考えられるのです。
“スパイ・暗殺・変名”新撰組の裏工作員・斎藤一の謎の人物像 まとめ
明治時代に藤田五郎と名乗り、新撰組のメンバーであったことを隠して生きていた斎藤一。
『藤田家の歴史』による息子や甥っ子たちの斎藤一像は、無口な人物だったとされます。
そのため、同じく新撰組の生き残りであった永倉新八のように新撰組のことを多くは語らなかったようです。
そのため、斎藤一という人物がどのように新撰組の中で活躍していたのかは、謎が多く残ります。
その謎めいた人物像が想像をかきたて、漫画アニメ『るろうに剣心』での斎藤一像にも描写されたのかもしれませんね。